96年3月15日号の特集記事紹介

●濱島京大名誉教授が医の倫理に一石投ず

(ミャンマー医療調査団報告会)

医療援助の基本はハートそして友好

金儲けのためではなく奉仕の心を

  発展途上国への医療援助には現地スタッフの人材育成が重要であることは、本紙175号でも取り上げたが、濱島義博(京都大学名誉教授)氏は先ごろ東京で講演し「医者として何ができるかという観点に立てば、発展途上国への医療協力は自立できる医療人の育成であり、けっして金儲けなどではない」と強調した。氏は過去24年間に33回もミャンマー(旧ビルマ)を訪れ、現地の感染症をはじめとする基礎実験施設や病院の建設に携わってきたが、その間、多くの純朴で心の豊かなビルマ人に接してきたという。「ミャンマーは国全体がお寺のようなもの。奉仕をさせていただく」という氏の一貫した考え方は、エイズ薬害訴訟をはじめ、医師の倫理が問われているわが国の実状に、一石投じる形となった。

 濱島義博氏

 医者の卵に"仏さんの笑顔"をみた

 この講演は、日本医薬療品輸出組合医科・歯科器械部会(松本謙一部会長)が、今年はじめミャンマーの首都ヤンゴンで開催された第1回ミャンマー、日本ヘルスエキスポに参加した際、同国の医療施設を視察する目的で結成した調査団の帰朝報告会の中で行われたもの。濱島義博氏の長年にわたるミャンマー(旧ビルマ)との交流もあり、ミャンマー大使館のウ・テ・ミン書記官や日本に留学しているミャンマーの医師も出席した。

 「昨年のベトナムにつづいて今年はミャンマーの医療施設を見学してきました。ODAやNGOといった大袈裟なものではなく、とりあえず今、自分達のレベルで出来ることからやってみようということで調査団を組織したわけです。現地の実状をこの目で見て、現地スタッフとのコミュニケーションを図っていこうというのが主旨です」と松本謙一部会長が挨拶したあと、濱島氏が講演した。

 「発展途上国への国際医療協力の基本は金やモノを持っていくことではありません。それはハートであり友好であります。大事なことはその国の人が何を考え、何を望んでいるかをじっくりと見きわめるということが基本であります。そのためには何回も何回も現地に出向いていき、現地の人が理解できる言葉でコミュニケーションを深めていく、そうした中で具体的な援助策というものを決定していかなければならない」と発展途上国への医療援助の基本について述べたあと氏が行ってきた援助活動の一端を紹介した。

 「ミャンマー側からの要請で、1967年から、ウイルス研究に関する5年間のプロジェクトが開始されました。団長は故東昇(京都大学ウイルス研究所・名誉教授)先生でありました。これらの研究にはマウスやウサギなどの実験動物が不可欠でありますが、現地にはそうした動物は一切おらず、マウスもウサギもすべて飛行機で膝に乗せて持ち込み繁殖させたのです。そんなことを何回もくり返してやっとの思いで動物実験センターを作り上げたのです。1976年、35億円の無償供与でビルマ保健省医学研究局の中に医学生物学研究センター(BMR)、実験動物センター、図書館の建設が始まり、1984年にはニュー・ヤンゴン・ジェネラルホスピタルが完成したのです」

 このニュー・ヤンゴン・ジェネラルホスピタルの建築には日本からたくさんの技術者がミャンマー入りしたという。

 「その建築現場の片隅で、猛烈な炎暑の中ワイワイガヤガヤと力仕事をしている一団の姿が目にとまったのです。なんとそれは当時の女子医学生たちが勤労奉仕をしている姿であったんですね。大変な力仕事なのですが皆笑顔がとても印象的で、まるで仏さんのよう。とても日本では考えられない事だと胸を打たれました。その彼女たちも今では立派な医者になって活躍しているのです」と、経済的にも恵まれ、あまやかされたようなわが国の医学生にかさねあわせて、今昔の感に耐えないという思いを覗かせた。

 第2次世界大戦中、日本はビルマに進攻したがビルマ軍やビルマ民衆とは戦火を交えず、むしろビルマの人々に助けられた日本人が多いという。戦死者19万人、14万人が辛くもビルマから帰還した。当時の日本兵の平均年齢はすでに78歳、それでも毎年ミャンマーを訪れる戦争体験者があとを絶たないというのは、仏の心に通じたビルマの人たちへの感謝のあらわれだろう。現代の日本人に欠けているものが見えてくるようだ。

 「国全体がお寺のようだ」と濱島氏のいうように、ミャンマーでは多くの若者が一度は仏門に入って修行をするのだそうだが、わが国では、国民の健康を守るという重責を負う立場にある者が、その判断を誤り私利私欲に走るなど、とても恥ずかしくてミャンマーの人には言えないのである。

(C) IRYOU SHIMPO 1996



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