2014年1月15日
 
コラム【待合室】は、
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 ★2020年へ思いを馳せるスーパーカー・ジャパン
   

 さき(昨年秋)のIOC総会でロゲ会長(当時)が「TOKYO 2020」の紙片をかざしておもむろに「TOKYO」と、五輪開催地を 発表した瞬間の興奮は日本中を歓喜の渦にまきこんだ。

 日本ならちゃんとやってくれるだろうという期待感。そして大震災の「被災地支援」というコンセンプトを加え、市民の支持を得ることに 成功したのだった。

 前回の東京五輪(1964年)は戦後の荒廃した国土と人心の蘇生に全力を投入した。それはまるで、日本が一丸となって、スーパーカー「ジャパン」号を創り 上げ、世界の目を引くことであった。

 だが残念ながら、日本の栄誉をになって登場したはずのスーパーカーは「バッグギアとブレーキをつけるのを忘れてしまった」(倉本聡)のである。

 外国人に見せても恥ずかしくない東京を演出しようとしたが、皮肉にもそうしたスーパーカーを作ることに気をとられるあまり、バックギアとブレーキをつけ 忘れてしまったというわけだった。


 だが、今度の五輪招請最終プレゼンテーションで、大震災の地・宮城県気仙沼出身パラリンピック陸上の佐藤真海選手が病気や震災から立ち直ったスポーツの 力を感動的なスピーチでアピールし、招致団のプレゼンに勢いをつけた。

 そしてもう一つ「おもてなし」の心情を披歴した滝川クリステルが流暢なフランス語でその心情を強調したのもみごとだった。

 そして、この様子をテレビで報道された画面に早朝まで目を真っ赤にして拍手していた人がいた。欽ちゃん(萩本欽一)である。彼はこう言った。「2020年 の東京五輪は粋でおしゃれな五輪にしたい。その時、選手村に『おもてなし窓口』をつくることを提案します」。その時ぼくは窓口の受付係りになってお手伝い したい」。

 欽ちゃんの頭の中を渦巻いていたのは「私は競技をほとんど見ていない。でも見たかったなあ。もっと大きくなったら、東京にまた五輪をよんでくれるだろう。 その時はゆっくりみるぞ―!」との意気込みだったであろう。

 そしたら、何と再び東京五輪がやってくることになった!こうした思いを胸に、欽ちゃんだけでなく日本人の多くが、新春を迎えた。

 「思えば1964年の東京五輪は人生で一番貧乏な時期の行事だった」。今度こそ粋でおしゃれな東京五輪にしたいものである。

 世界の人々を迎え入れるための施設建設は新年から早速着手される。競技施設は37会場である。うち22会場はあらたに建設される。

 もっとも高くつくのは国立競技場の建て替えである。用地はすでに確保されているが、懸念されるのは人手不足と建築資材の高騰であろう。そしてこの問題と 共にのりこえねばならないのは景観である。

 景観は大きさだけのものではない。歴史という「時間」が育んだ環境との関係も重要になってくる。こうしたことを乗り越えてはじめて完全装備のスーパーカー 「ジャパン」号の登場となり、多くの人に祝福されるものになるというものである。

 日本は東京五輪を弾みに変わってゆくであろう。訪日旅行者は昨年、念願の1千万人の大台を達成したが、次は2千万人を目指すと日本政府観光局(JNTO)は 牽引の旗を掲げる。

 私たちはいまここで、2020年東京五輪へあと6年の思いを馳せて、新しい年をスタートしたのである。=敬称略

 
 
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