2015年8月15日

コラム【待合室】は、病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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★痛みの治療に生涯をささげたプロレスラー


 1994年8月15日、痛みの治療にその生涯をささげたワシントン大学のジョン・ジョ セフ・ボニカ教授がこの世を去った。「鎮痛法の父」とも呼ばれ疼痛の臨床を勉強す る人なら必ず一度は目を通すであろうといわれる名著「The Management of Pain」を 著したことでも有名な麻酔科医である。このボニカ医師にはジョニー・ブル・ウォー カーというもうひとつの名前があった。彼は医学生のころ、なんとプロのレスラーと しても活躍していたのである。

 イタリア・シチリー島で生まれた彼は12歳のときに医師である父親に連れられてア メリカに渡ったが、すぐに父親が亡くなり貧しい生活を強いられることになる。苦学 して医学部に入ったが生活費を捻出するために研修医になってからも覆面レスラー、 マスクド・マーベルとしてリングに上がり続けた。当時、研修医としての彼は無給 だったからである。プロレスラーには生傷が耐えない。股関節を痛め、肋骨にひびが 入ることは日常茶飯事である。プロレス引退後も彼は現役時代に痛めた傷の後遺症と もいえる「慢性的な痛み」に苦しんだのであった。この経験が彼を痛みの治療へと導 いたのであろう。後に彼はワシントン大学に「マルチ・ディシュプナリー・ペインク リニック」を設立する。

 怪我や病気が痛いのは当たり前といわれていた時代に「痛み」そのものを明確に治療の対 象とした施設をオープンしたのである。そしてこれは、関連するあらゆる分野の専門 家が痛みの治療にアプローチするという画期的なアイディアであった。彼は世界疼痛 学会を主宰し、日本にも「疼痛外来」や「ペインクリニック」として導入された。疾 病や病因に関係なく、痛みがあればその痛みそのものを治療しようという考えで、従 来の痛みに関する医療機関の対応を大きく発展させたともいわれている。

 「痛み」という感覚は主観であって本人にしか分からない。患者の苦痛を医師が体 現することは出来ないので、まずは患者の痛みがどういうものなのかを医師は理解す る必要があった。さらに痛みの性質は実に複雑で、肉体的にも精神的にも我々に大き な苦痛を与えるその一方で、生体の防御機構を司るためには無くてはならない大事な 感覚でもある。これが医療現場ではときとして悩ましい問題となる。このことが、本 来の患者中心の医療に深く関係することになる。

 たとえば、不注意で向こう脛を何かにぶつけた時、強烈な痛みが走って「どこ」を 「どれくらいの力」で打ちつけたかという情報を即座に脳に伝えるのは、痛み感覚の もつ信号としての役割である。この感覚を失った「無痛症」という病気になるとヒト は長く生きることは出来ない。怪我をしても腫瘍が出来てもまったく痛みを感じるこ とが出来ないからである。

 向こう脛を何かにぶつけた時、強烈な痛みを感じた場所を瞬間的に手で押さえる。 これが「場所」と「強さ」という痛みの第1の情報が脳に到達したときの反射的な行 動で、その後にジワジワとした弱い痛みが第2の情報として追いかけるようにやって くる。第1の痛みが瞬間的であるのに対して第2の痛みはしばらく続く、しかも第2 のジワジワした痛みは感情(情動)の影響で強く感じたり弱く感じたりもする。これ は異なる2つの神経線維によって痛みの信号が脳に伝わるためである。

 さらに、ぶつけた様を他人に見られ揶揄されたりすると恥ずかしさや悔しさといっ た感情が涌き、痛みの強さを増幅させたり長引かせたりもする。この段階では第1の 強い痛みは消えてジワジワとした第2の痛みだけが残っている。慢性痛は主にこの第 2の痛みの性質がかかわってくる。

 長年プロレスラーとして活躍したボニカ教授は、ひどい慢性痛に悩まされ晩年は杖 をつく生活だった。若かりし頃にもしボニカ教授がレスラーとして活躍していなかっ たならば、痛みの治療は今日ほど進んではいなかったかもしれない。

 


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