2014年7月15日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 ★103歳、健康エリートの生き方
   

 東京都杉並区の安藤久蔵さんは103歳。明治44年(1911年)生まれだが、70歳代といっても通るほどの若々しさだ。我々が生まれる前の 出来事をユーモアがたっぷりに気取らず奢らず自然体で話す。気付くと周りにはいつしか人が集まってきてしまうという独特の魅力がある。85歳の とき珈琲豆の卸業を始め、お得意さんには今も豆を自転車に積んで配達しているというから驚く。健康エリートとはこういう人のことを言うのだろうとつくづく思う。

 「私は兄弟が多くてね、13番目に生まれたんです。生まれたときはグターッとしていて元気がなかったそうです。今で言う仮死状態ってやつだね。(今では 考えられないことだが)当時のことですからね、そーゆー子供は、産まれるとすぐマビキされることが多かった…」。そのとき自分は、母親の必死の懇願で命拾いをしたのだと自身の出生を話し出したが、想像もできないような苦難もさらりと言い放ち、説教じみたところが微塵もない。

 親は銚子で漁師をしていた。網元だった叔父の理解で東京の大学に進むことができた。当時まだ大学を出た学士は珍しく、卒業後は商社に勤めるも将来の自由な 発想は会社の水に合わずわずか半年で辞めた。実家の銚子に帰ると、こんどは仲間を募って船団を組み南氷洋に鯨を取りに出る。漁に出ると半年は海と空しか見ることができない。鯨は捨てるところがなく肉は高値で売れた。当時の収入は一回の漁で東京に家が建つほどだったという。

 しかし、50歳を過ぎるとあっさり船を下りてしまう。その後は、大学のときに憧れた山登りに明け暮れる。全国の山々を五万分の一の地図を頼りに分け入って 行く。山小屋どころか登山道の整備もまだの時代、ケモノ道を分け入って峰々を縦走して行った。米と味噌が主な食料だが、そんな安藤さんを山中に暮らすマタギ の人たちは温かく迎えてくれた。熊や鹿の肉をご馳走になりながら安藤さんはマタギの人たちといろんな話をした。日本の山々を歩きつくすと今度はエベレスト、 キリマンジェロ、アンデスなど世界中の山々を登った。

 ある時、アフリカでポーターをしてくれていた農家の青年が「俺たちはコーヒーを作っているんだがちっとも金にならない。旦那は日本人だろう。俺たちの コーヒーを直接売ってくれ と、言って来たという。このことがきっかけとなってフェアトレードでケニアのマサイ族などからコーヒー豆を直接仕入れるようになった。このとき安藤さんは 齢85になっていた。それ以来、安藤さんは103歳になる今日も荻窪で珈琲豆店を営んでいる。

 そんな安藤さんに「なぜ、その歳になってもそんなに働くのか」と聞いた。 「そりゃぁー、あんた。鼻だの口だの、あっちこっち管突っ込まれて死ぬのは嫌だからさ(笑)。と、その答えは強烈だった。
 ポックリ死にたい人は病院に行かないことだと、親しいある医師から聞いたことを思い出したのである。

 
 
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