2014年12月15日
 
コラム【待合室】は、
病院の待合室という特殊な空間に身を置いて「医療」を眺めています。
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 ★離島の暮らしと江戸の医療に学ぶ
   

 ずいぶん前に訪れたある離島での話。島の一番高い場所にある展望台に立つと、ぐ るりと海岸線が見渡せた。ずっとこの島で暮らしてきたというお婆さんが話を聞かせ てくれた。長靴を履き丸くなった背に鍬を担いで家に戻ってきたところを「お元気で すね…」と声をかけると「あはは、この島には医者がおらんからのう!」と明るく言 い放った。東京で暮らす記者は一瞬、「医者にかかると寿命が縮むぞ」とでも言われ たかのような錯覚を覚えた。むろん老婆の意は違って、島には医者がいないので普段 から養生しているからだよ…というものだった。翻ってわが身の日常を省みれば徹夜 仕事や深夜の飲食、そこに運動不足が加われば生活習慣病にならないはずもなく、ま たその解決策が生活改善かと思えばそうではなく、薬ばかりに頼っている。「医者に かかると寿命が縮む」という、あのときの記者の勘違いもあながち間違いではないか も知れない。

 「和食」や「日本の手すき和紙」がユネスコ無形文化遺産に登録されるなど、江戸 の暮らしが見直されてきているという。260年もの長きにわたって続いた江戸時代の 食文化や生活には、戦乱がなくなったことと鎖国という特殊な環境とが影響している に違いない。江戸には武士を頂点としながらも識字率が高く浮世絵や歌舞伎などの娯 楽が発展したことからもわかるように、その実態は治安のよい町人文化が栄えたとい える。幕府の鎖国政策は日本独自の文化を生み出したのだ。最盛期には100万人の人 口を有していたとされ、パリやロンドンなど同時代のヨーロッパ大都市と比べても江 戸の町は実に衛生的であったという記述がある。その背景には健康に関心が高かった 指導者の存在もあっただろう。初代将軍の徳川家康は無類の学問好きであったそう で、自ら生薬を調合し健康維持に努めたとされているし、目安箱を設けた8代将軍吉 宗は1722(享保7年)に貧民救済施設として無料で医療を提供する「小石川養生所」 なども開設している。

 無医村の離島環境と鎖国をいきなり比較することはもちろん論外だが、無いものは ないのだから、無ければそれなりに工夫して生きて行くしかないという、この双方に は共通するものがあるのかも知れない。突発的な怪我や重篤患者には長崎でオランダ 医学を学んだ蘭方医が活躍したし、慢性疾患には漢方医が、そして鍼治療やお灸、あ ん摩などの民間医療も差別されることなく機能していた。鎖国とはいえ江戸の医療は ダイナミックである。そして1805年(文化2年)には花岡青洲が曼荼羅華(チョウセ ンアサガオ)を主成分とする全身麻酔薬「通仙散」の創製に成功する。有吉佐和子の 小説「花岡青洲の妻」には青洲による二十数年にわたる研究と母・於継、妻・加恵そ して家族の献身的な支えが描かれている。花岡青洲の全身麻酔薬「通仙散」の完成 は、西欧諸国で世界初の全身麻酔薬として伝えられるボストンでのエーテル麻酔の第 一例目(1846年)に先駆けること40年以上も前のことであるのは驚きである。
          
                花岡青洲が使用した手術器具



 
 
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